これは前ページからのつづきです
まだの人は前ページも読んでね(~▽~*)
ほむ (*´▽`*)
まぁ、前回の記事で、私がこの話をどこに着地させようと思っているのか薄々分かったかたもいらっしゃると思います。
そう、カンペキ正しい人なんていない。
誰もが正しさと間違いを抱えていて当然なのだ。
争いなんて悲しいだけ。虚しいだけ。
みんな、仲良く。 仲良きことは美しきかな。
――なんて言うと思った?
残念! そんな綺麗ごと言う気はないヨ!
(。-`ω-)んふー
5. 悪い人などいないだなんて あいにくですが頷けません
正しい人こそいないんじゃないか カンペキ正しいってどういう人だ
「正しい人こそいないんじゃないか」は、1番の歌詞でも既に十分歌われた内容ですね。
カンペキに正しい。 常に正しい。 それはとても難しいことです。
少なくとも私にはムリです。
なぜなら、私は世界で一番賢いわけでもないし、諜報機関の知り合いもいないからです(ぇw
私は“正しい判断”をするのに必要なのは、知識(情報)と知恵(考える力)だと思っていますが、
だから、まぁ、人並み程度の教育を受け、人並み程度の情報収集力しかない私は、
“正しい答え”に決して近い人間ではないと思うのです。
自分の正しさを誇るためには、
せめて世界一賢くて、世界一の諜報機関を持っている人間にならなければw
そうでなければその正しさは“ウソの正しさ”“上っ面の正しさ”に過ぎません。
立場によって正義が変わる、なんて現象も
つまり人というのはそういう自分の限られた範囲の知識・知恵の中でしか正義を自覚できない
ので、ある人にとっては正しくても、別の人にとっては全然正しくなかったりするのだろう
と思うわけです。 (。-`ω-)今、私、哲学者みたいじゃね?w
と思うわけです。 (。-`ω-)今、私、哲学者みたいじゃね?w
うん、まぁ、ちょっと脱線しましたが、とにかく「正しい人などいない」。
まさに「Nobody is Right」なわけですよ。
で、“悪い人などいないだなんて あいにくですが頷けません”
と中島さんは歌っています。
つまり、“悪い人はいる”ってことです。 (ストレートw
さすが中島さん。いつもどおりネガティブですね (ぇw
中島さんの放つメッセージ(歌)に、「世界は幸せだよー」とか「皆、ハッピーだよー」とか、
「皆、分かり合えるよー」とかいうことはほとんどありません (~▽~;)
でも、それが現実です。
これがリアルだから。 これがリアルガチだから。(出川感
だから、“「分かり合えない」ってことを受け入れよう”、“「分かり合えない」ことを許し合おう”
それが中島流の人間愛じゃないかと、彼女の曲を聴いているとそう思うことが多いです (~ー~*)
しかし、ここでちょっと違和感を覚えませんか?
1番の歌詞では、
“もしも私が全て正しくて ~~ 私以外は間違いばかり” でした。
つまり、“正しい人”の対義語は“間違っている人”だったのです。
しかし、この2番になると“正しい人”の対義語として “悪い人” が登場します。
“間違っている人” と “悪い人”
似ているようで、かなり違います。
“間違っている”は、単に「1+1=5」みたいな間違い方もありますが、
“悪い人”には、文字どおり『悪意』がありそう……。
“正しい人なんていない”と、この曲は繰り返し歌っています。
カンペキ正しい人なんていません。
私たちは誰もが“間違っている人”です。
じゃあ、私たちは皆、『悪い人』なのでしょうか?
『悪い人』とは何なのか?
6. 争う人は正しさを説く 正しさゆえの争いを説く
その正しさは気分が良いか
正しさの勝利が気分良いんじゃないのか
『悪い人』
そのヒントがあるとすれば、このフレーズでしょう。
『悪い人』とは、“争う人”のことなのか!?
このフレーズは本当にメッセージに富んだ部分だと思います。
CMでこの部分が使われるのも納得です (~へ~ )
私事になりますが聞いて下さい。
先日――、私は家族とこんな話をしました。
例の佐野うんちゃか氏が東京オリンピックのエンブレムで、盗作をしたとかしてないとか、うんちゃかすっちゃかしていたワイドショーを見ていたときのことです。
佐野氏が自分のデザインしたエンブレムを取り下げたことについて、
私のパパン(父)はこう言いました。
「自分の仕事に自信があるなら、世間が何と言おうと取り下げちゃいけない。
取り下げるってことは、自分で負けを認めたのと同じ。
盗作を認めたのと同じだ」
それに対して私はこう言います。
「佐野氏のところには、家族を殺すとか脅迫めいた電話もきてたらしいよ。
盗作を認めたくなくても、家族を守るためには仕方なく……、
って考え方もできるんじゃない?」
そしたら、うちのパパン、なんて言ったと思います?
「それでも取り下げたら負け。
自分が間違ってないと思うなら絶対に戦わなきゃいけない。
その結果、家族が犠牲になったら、それは残念だが仕方ない」
おい、マジかよ、パパン。
その犠牲になる家族って、貴方から見れば私らのことやぞ? (~Д~;)
私らが死んでも、「残念だが仕方ない」言う気なんか、パパン?
まぁ、正直ドン引きしたよねw
確かにね、パパンの言うこともある面では非常に正しいわけですよ。
「取り下げたら負けになっちゃうから、自分が正しいと思ってるなら折れちゃいけない」って。
まして、脅迫なんかに屈したらダメ。それは確かに正しい。
でも、家族の安全を守らなきゃいけないってのも、ある面では正しいと思う。
命を守るってのももちろんだけど、なんかこう学校のイジメとか? ご近所の陰口とか? 全てから守るのって簡単じゃあない。
“幸せな生活”って、ただでさえ難しいのに、
まして自分を攻撃しようといる人がいる中でその幸せを守るのは到底不可能な
ことだと思う。
それに、仮に例えば裁判とかやって勝ったとしても、「そうか佐野さんは正しかったのか。今まで疑ってごめんね」って世間の人は言ってくれるかな? 「裁判で勝っても、本当はどうだか分からない」って、結局そう言うんじゃないかな?
まぁ、さっきも言ったけど、正直かなり引きましたよ。
パパンにとって私やママンやお姉の命なんて、「残念だが仕方ない」なんだな、と。
でも、まぁ、うちのパパンは『スーパー俺が正しい系男子』なので、
私もわざわざ言い返そうとは思わなかったのですが…… (~Д~;)
しかし、ここでもし私が「パパン! あんた間違ってるよ! ヽ( `Д´)ノ 」と言い返せば、激しい家族ゲンカが勃発ですよねw
これこそ、
私の“正しい”と、パパンの“正しい”がぶつかる、
“正しさと正しさが相容れない”“争い”というわけです。
だけど、私の“正しい”と、パパンの“正しい”はどちらもカンペキではない。
どっちもある面では正しいし、ある面では間違ってる。
だから、どっちが勝っても負けても、なんかおかしい。 なんか変な感じ。
パパン 「信念のためなら家族が犠牲になるもやむなし (~Д~ ) 」
私 「家族のためなら脅迫に屈するもやむなし (~Д~*) 」
ミ☆ 似たもの親子 ☆ミ
仮に私がパパンを言い負かしたからって、
世の中の正義が「脅迫に屈してOK! (*´▽`*) 」になるわけじゃない。
そう、つまり、私の“カンペキじゃない正しさ”が、“パーフェクトな正しさ”にランクアップするわけではありません。
この争いには何の意味もないのです。
そして、この場に彼(ブチャラティ兄貴)がいたらこう言うんじゃないだろうか。
「信念は貫く。
家族も守る。
両方やらなくちゃいけないのが、
幹部のツライところだな……」
そう! 両方やるという“正しさ”ッ!
ブチャラティ兄貴の“正しさ”には、到底及ばないッ! 私とパパンの争いなどッ!!
私とパパンの考えの良いとこどりをしただけのものです。
つまり、私とパパンがお互いに相手の話を良く聞き、
自分の意見と上手く混合させれば、簡単に辿り着くことのできる単純なもの。
しかし逆に言えば、私とパパンが、
「私が正しい! ヽ(`□´)ノ 向こうが間違ってる!」
と言い張って、互いに相手を否定し合うような争い方をしていたら、一生辿り着くことのできない考え方だと言えるでしょう。
もちろん、ブチャラティ案には「どちらか一方だけを守るより遥かに難度が高い」という欠点があり、これも“カンペキに正しい”やり方とは到底言い切れません。
しかし、少なくとも私やパパンの意見よりちょっとだけ“正しさ”が強くなったような気がします。
争う人は正しさを説く 正しさゆえの争いを説く
その正しさは気分が良いか
正しさの勝利が気分良いんじゃないのか
そう、争う人は「自分が正しい」と思ってる。
自分で間違ってると分かっていることでは誰も争う気なんて起きないから、
争う人はみんな、自分の正しさを信じています。
そして、自分とは違う意見を持つ相手を見つけると、
“嫌い”“軽蔑”といった感情を抱きます。
なぜなら、その相手は自分の“正しさ”を理解してくれないからです。
その相手がいると、自分の“正しさ”が否定されるような気がするからです。
だから、自分の“正しさ”を守るためには、
その、違う意見を持つその相手を否定し返し、打ちのめし、黙らせようとします。
自分を否定する相手を否定することが、『自分の正しさの証明になる』と、そう思っている。
だから争うのです。 だから戦うのです。
だから、「自分こそが正しい!」「この正しさを守るためには戦わなければいけない!」と声高に叫ぶのです。
そして、相手を打ち負かした時、こう言うでしょう。
「やっぱり私が正しかった。 正しさの勝利だ!」 ――、と。
自分の正しさを守れた安堵感と、
そして自分の正しさが勝った=自分の正しさの方が優れていたという『優越感』を覚えるのでしょう。
争えば争うほど、勝てば勝つほど、
自分の“正しさ”が証明できるような気がする。
自分の“正しさ”が確かなものになっていくような気がする。
やがては自分の“正しさ”を証明するために、そして勝利の安堵感と優越感を得るために、自ら争いを求め、仕掛けていくようになるのではないでしょうか?
「やっぱり私が正しかった。 正しさの勝利だ!」
カンペキな正しさでもないくせに
欠点だらけの正しさのくせに、
“その正しさは気分が良いか”
“そんな正しさで勝ったつもりになって、本当に気分が良いのか?”
→つづく