これは前ページからのつづきです
まだの人は「その1」から読んでね(~▽~*)
さて、前回はかなり説教臭い内容になってしまいましたね。
まぁ、ズバッとシンプルに言ってしまえば、
“争い”というのは、
「自分は正しい」と思い込む傲慢さ、
そして他人を打ち倒すことでその正しさ(=自分のカンペキさ)が表現できると考える身勝手さ、
――などによって引き起こされるということです。
だから、自分は「正義のために戦っているんだぞー!」と思っていても、
実は自分自身の優越感のために他人を攻撃しているだけだったりする。
そして、「正義のため」なのか、「自分のため」なのかという、この重大な違いが、
何より争っている本人には非常に区別が付きにくく、自覚が難しい。
それゆえにまた争いが過熱してしまう。
そういう“争い”の虚しさ、愚かさ、不毛さがこの曲には込められているように感じます。
争う人間の、『心の虚しさ』 と、言い換えても良いかもしれません。
「Nobody is Right」 と 「ファイト!」 は矛盾している!?
「Nobody is Right」は、『争う人間の心の虚しさ』
ちょっと待って下さいよ、と。
以前、「ファイト!」の記事を書いたときは、
ファイト!は『闘え!』の意味だって言ったじゃないですかー!
わー! やだー! 矛盾ーー! これ、矛盾じゃなーーい!?(揚げ足感
安心して下さい。 矛盾じゃないですよ (~▽~*)ハァイ!
「ファイト!」のサビにあたる、この歌詞
闘う君の歌を 闘わない奴らが嘲笑うだろう ファイト!
もしこの歌詞を「Nobody is Right」的に解釈するならば、
この“闘う君”もまた『不完全な正義を振りかざし他人と争う人』――ということになってしまうのか!?
その可能性はある
はい、単刀直入に言いますよ。
この“闘う君”の闘いも、「Nobody is Right」で歌われているような、エゴに満ち、不毛で虚しい“争い”になってしまう可能性は十分にあります。
なぜなら、エゴとは誰の心の中にもあるものだからです。
しかし、「ファイト!」の歌詞に歌われている登場人物たちは、
“中卒だから仕事を任せてもらえない、と嘆く少女”であったり、
“大人に頬を打たれる少年”であったり、
“階段で突き飛ばされる少年” や “それを見ていて何もできなかった私”、
“田舎に縛られ、都会に行くことができない私”
――など、彼らには戦う理由があり、まさに戦わなければいけない人々であり、
またこの歌を聴く私たちにとっても「ファイト!(闘え!)」と言って応援してあげたくなるような人物たちです。
応援したくなる。
つまり、私たちはなぜか彼らの“闘い”を肯定的な目線で見ています。
そもそも中島さんが「ファイト!」という曲を作ったということから考えても、
中島さん的に“闘い”が全てダメというわけではないでしょう。
何より、「ファイト!」は誰もが闘っている。闘うことの大切さ、美しさを
歌った曲ですし、おすし。
私も、闘いそのものを否定する気は全くありません。
この、「ファイト!」のような肯定的に受け止められる“闘い”と、
「Nobody is Right」のような否定的に受け止められる“争い”の差とは何なのか?
「闘い」 = 「争い」 ではない。
例えば、「ファイト!」に登場する、中卒の少女。
中卒だからという理由で責任ある仕事を任せてもらえず、悔しい思いをしています。
この歌詞の元になったのは、
中島さんのラジオ番組に送られてきた、リスナーの手紙です。
私は中学を出て、すぐに働いて二年になる十七歳の女の子です
この間、私の勤めている店で、店の人が私のことを
「あの子は中卒だから事務は任せられない」
と言っているのを聞いてしまいました
私、悔しかった
悔しくて、悔しくて、泣きたかった
「中卒のどこが悪い!」……と、言いたかった
私だって高校行きたかった
だけど家のこと考えたら、私立に行くなんて言えなかったし
高校に入る自信もなかった
なのに、こんなふうに言われるなんて、ひどい
ごめんなさい
愚痴を書いてしまって
またお便りします
P.N. 私だって高校行きたかったさん
中卒でもやればできる。学歴ではなく、私自身を見てほしい。
――きっと、そういった感情が、この少女の中にはあるのではないでしょうか。
そして、「私自身を見て」もらうためには、少女は闘わなければいけません。
黙々と働きまくって、店長が考えを改めるのを待つのも良いでしょう。
また、店長に直談判し、しっかり言葉で訴えるのも良いです。
あるいは、もうこの店は辞めちゃって、
ちゃんと自分を評価してくれる別の店を探すのも良いでしょう。
良い出会いを探し求めるのも一つの闘いであると私は思います。
ただ、やってはいけない闘い方があります。
それは、
「私を評価してくれないなんて、店長は悪い奴だ。ダメな大人だ。
良い大人なら、ちゃんと私を評価してくれるはず」
と、考えることです。
つまりは、事の原因を全て相手側に押し付ける(=自分には何の責任もない。自分は間違ってない)という考え方ですね。
また上記のとおり、この考え方には「相手は悪い奴だ」「ダメな奴だ」という“嫌い”“軽蔑”といった感情が伴います。
これも、「Nobody is Right」で歌われているとおりです。
はっきり言いますが、
相手を憎むことは「闘い」ではありません。
自分は悪くない。
相手が悪い。
そう思うことで、自分の不満感や優越感を正当化しているだけで、
実は『実際の問題解決からは逃げている』だけなのです! (~□~ )クワッ!!
相手が悪い
私は悪くない
だから、折れるのは相手の方だ
だって私は悪くないのだから
相手が悪い、と考えることで
問題解決の責任を相手に丸投げしてしまいます。
相手を“嫌い”、“軽蔑”し、時に打ちのめそうとする。
でもそれ以外には何もしない。
「私は正しいんだ」と言って自分で自分を甘やかす。
それが“闘い”でしょうか?
いいえ、私はそうは思いません。
そう、実は「Nobody is Right」に登場する“争う人”は、闘ってなどいないのです。
「ファイト!」のサビで言えば、
闘う君の歌を 闘わない奴らが嘲笑うだろう
まさにこの「闘わない奴ら」の方こそが、“争う人”だったのです!
(; ・`д・´)ナ、ナンダッテー!?
そういう意味で考えると、
件のリスナーさんからの手紙における、
「中卒のどこが悪い!」
という一言は、なかなか危うい言葉です。
中卒のどこが悪い →悪くない →私は悪くない
――と、自分で自分を甘やかす方へ転がってしまえば、ただの捻くれて不貞腐れた、世間に悪態を吐くだけの人になりかねません。
「中卒のどこが悪い」
学歴が悪いのです。
頭が悪いとは言いません。
でも、高卒や大卒の子に比べて、学歴上はどうしても劣ってしまう。
それは事実です。
その、「自分の弱さ」を認める。
「自分の弱さ」を認め、――じゃあ、その弱さを克服するには何をすれば良いのか考える。努力する。奮闘する。
それが“闘う”、
『闘いながら生きる』 ということ。
そして、自分の弱さを知るって言うことは、
実は相手の考えを知るってことでもあるのです。
なぜ、店長は「中卒には任せられない」と思っているのか?
店長には店長の人生がある。考えがある。
店長もまた、自分の人生の中で何かと“闘っている”のです。
この少女に意地悪したくて言っているわけではありません。
「任せられない」という言葉には、店長には店長なりの理由があります。
仕事を任せてほしいのならば、
店長を憎むのではなく、
なぜ任せてもらえないのか店長を知ることが一番大事です。
そう、つまり本当の意味の“闘い”とは
相手を憎むことではなく、
相手を知ること
ではないでしょうか?
なんか、孫子とかいう人もそんなことを言ってました。
敵を知り、己を知れば百戦綾瀬はるか、とかなんとか (*´▽`*)ぽぇ
「ファイト!」闘わない奴ら と 「Nobody is Right」
「ファイト!」における“闘わない奴ら”とは、具体的にどんな人でしょう?
「ファイト!」は少年少女を応援するようでいて、実は少年少女以外の大人たちのこともちゃんと応援しています。
「誰もがみんな闘っている」 これがファイト!のテーマと言って良いでしょう。
「誰もがみんな闘っている」歌なのに、“闘わない奴ら”が登場するのは矛盾のように感じます。
そこで、私としては、
この“闘わない奴ら”とは『他人が闘っていることに気付かない人』、
あるいは『他人の闘いに無関心でいる人』のことではないかと考えます。
「ファイト!」の歌詞には、
“階段で突き飛ばされる子ども” と “突き飛ばした女”
そして、その現場を見ていながら逃げだした“私” が登場するエピソードがあります。
このエピソードでは、“私”は子どもに同情し、また助けることができなかったことに胸を痛めるという『善』の側にいつつも、
しかしその一方、その場から黙って立ち去るという、“突き飛ばした女”と全く同じ行動をとるという『悪』の一面も併せ持っています。
人間は誰しも善悪の心をあわせ持つもの。
まさに「Nobody is Right」の、カンペキではない正しさに通じる部分と言えるでしょう。
そしてこの『善』『悪』の境目こそ、
突き飛ばされた子どもに同情する立場になるのか、
あるいは逃げた女と同じ立場になるのか、という差。
つまり、誰かの痛みや苦しみ(=闘い)に同情できるかどうか、
興味を持つかどうか、
関心を持つかどうか、
気付くことができるかどうかなのです。
前述の、中卒の少女と店長の例にも当てはめれば、
店長には店長の理由(闘い)があると気付くこと。
これに気付かないと、「悪いのは店長だ。店長はダメな奴だ」という見当違いな嫌悪や軽蔑へと繋がりかねません。
この“嫌悪”や“軽蔑”こそ、
“闘わない奴ら”が浮かべている“嘲笑”の正体なのではないでしょうか。
「あいつは○○だから」と、良く知りもしないのに勝手に値踏みして、
自分より下の人間だと決めつける。間違った人間だと決めつける。
そうすることで、「自分は優れた人間だ」「自分は正しい人間だ」と自分自身を甘やかして満足する。自分自身を誤魔化す。
それが、「ファイト!」の“闘わない奴らが嘲笑う”ということであり、
「Nobody is Right」の“もしも貴方が正しくて”と、自分の正しさを信じている人が“嫌いな人しか出会えない”“軽蔑だけしか抱けない”、そうして他人を見下すことで得られる身勝手な優越感=“気分が良い”ということなのです。
総括
今回の考察は、かなり私自身の言葉による部分もあったので、
正直、あまり良い考察ではなかったなと思います (~ー~;)
でもまぁ、めっちゃ簡単にまとめれば、
中島さんは“闘わずに他人を嘲笑うやつ”や、“自分がカンペキ正しいと思い込んで他人を見下すやつ”、
いわゆる『安易に他人を否定すること』を否定しているということです。
「ファイト!」はそのマジメに闘っている側を歌った歌であり、
「Nobody is Right」はその不真面目に他人を傷つける側を歌っていると言えます。
そして、どちらにも共通して、
「誰もがその闘わない側にうっかり落ちてしまう可能性がある。人間というのはそれくらい脆くて弱いものなのだ」という隠れたテーマがあるようにも感じますね。
「だから、頑張りなさい」「だから、気を付けなさい」という応援であり、警告であると、
私はこの2曲をそんな風に思っています。
こんな風に言うと、ともすれば「みんな、仲良く分かり合おうよ」っていう、
まるで小学生向け番組みたいな単純な仲良し論に受け取ってしまう人もいるかもしれませんが、
そうではありません。
何も、ムリをして分かり合う必要はない。
やっぱり世の中、分かり合えないことも多いですからね (~▽~;)
分岐点で右に行きたい人と、左に行きたい人はどうやって分かり合えば良いのかw
でも、少なくとも「相手の考えを知る」ことで、自分は成長できます。
自分は成長する。
相手が自分の意見を取り入れて成長するかどうかは知ったこっちゃない。
でも、自分は相手の意見を知識に変えて成長する。
成長は“闘い”です。
“闘い”のための武器です。
「自分は正しい」なんて、甘えた“争い”をしているよりも、
色んな知識や思考を、飲んで、食って、血肉にして“闘う”人の方が美しいと私は思います。
「Nobody is Right」 正しい人などいない
他人を打ちのめして優越感に浸れるほど、貴方の(私の)持っている「正しさ」は強くないはず。