中島みゆき「ファイト!」 歌詞の意味を考える長文5

これは5ページ目です
まだの人は1ページ目 から読んでね(~▽~*)



ふと思い立ったので、
久しぶりに中島みゆきさん『ファイト!』の歌詞を考える記事、の続きを書きます。

思い立ったが木更津って言うしね♪ (´▽`*)むっきゅん



前回までの記事のおさらい。

ファイト!は理不尽さに打ちのめされる少女や少年たちの歌です。

理不尽さに対して逆らい、戦う姿は美しい。
  ――でも、美しく見えるのは“傷ついて、剥がれかけた鱗が光るから”

そう、戦うというのはとても辛く苦しいこと。
いっそ打ちのめされ、従属し、逆らうことを忘れた方が楽になれる。
周りの大人たちもみんなそうして「物分りの良い大人」になってきた。
それが普通。 それが当たり前のことなんだ。。


――でも実は!
その大人たちも別にのんびりとぬるま湯で暮らしているわけではなくて、
やっぱり何か理不尽なものと戦っていた。

川の流れに負けて、流れ落ちていった先の海にもやっぱり、魚たちを苦しめる国境や鎖なんかがあったりして、
その鎖に逆らって戦って、鱗が削げ落ちて美しく光らねばならないのだ。



つまり、ファイト!っていうのは理不尽に打ち負かされそうな少年少女を応援する歌なのですけど、
単純に、「少年少女=善、 大人=悪」っていうシンプルな構図にはしていないのですね。
  そこがやっぱりこの曲の――、
  何と言うか、「この私たち今いる、この“まさに現実”を歌っている」という
  リアリティを感じられるところです。

  変に“綺麗ごとを言っていない”というか、
  少年少女を応援するために「世界は素晴らしいよ」とか「世界にはいっぱい幸
  せ
なことがあるよ」とか、そういう理想化されたファンタジーな世界に逃げ
  ない。
  そこが、『誠実だな。誠実に応援しているな』と私は感じるわけです (~ー~*)

   もちろん、「世界は素早しいよ♪」っていう歌を否定するわけじゃないですよw
   そういうポジティブな気持ちも人生には大切ですし、そういう歌も私は好きです (*´ω`*)


と、いうわけで、↓この歌詞をもう一度見ていただきたい。

  私 本当は目撃したんです 昨日電車の駅 階段で
  ころがり落ちた子供と つきとばした女のうす笑い
  私 驚いてしまって 助けもせず 叫びもしなかった
  ただ 怖くて逃げました 私の敵は 私です

1番の後半の歌詞ですね。
ファイトの中でも特にショッキングな歌詞。

いや、歌詞と言うよりこれはもはや“事件”!w


でも、思い出して下さい。
大人は時に少年たちを理不尽に打ちのめしますが、
それは必ずしも「大人」=「悪」だからではないのです。

少なくとも『ファイト!』の中においては、大人もまた何か自分より強くて大きな、理不尽なものと戦っています。


では、この子どもを階段から突きとばした“女”

どう見ても事件。 どう見ても「悪」なのですが、
もしこの“女”が「悪」ではないとしたら、いったいこの“女”は何者なのでしょうか?


そこで、まずこう考えてみる。

事件ではなく、「事故」だった。

意図的に突き飛ばしたわけじゃない。
偶然ぶつかって、たまたま運悪く子どもが転んで落ちてしまった。

ありうることです。
  実は私も先日、階段から女性が転がり落ちるのを見ました。
  ほんの数段転がっただけで、すぐに止まり、ケガもしてないようでしたが。
  別に誰かにぶつかったわけでもなく、ヒールの高い靴を履いていたようなので、
  運悪く足を踏み外したのでしょう。 スマホでもしてたのかな?

    めっちゃおパンチュが丸見せになっていたので、
    正直、「私じゃなくて良かった…… (; -`ω-) 」と思ってしまった…。
    ほんと、管理人は心が穢れてる… orz

    助けもせず、叫びもせず、ただ怖くて逃げるでもなく、
    「私じゃなくて良かった…… (; -`ω-) 」ですからね。
    いや、ほんとゲスい。 『ファイト!』を語る資格ないですね、これ…
 
  で、そういう場面を見たから、またこの記事を書きたいと思ったわけです。
  自らを諌めるために。


で、えぇ、そう、“突きとばした女”の話。

この歌詞、出だしが“私、目撃したんです”から始まっています。
実はこれが意外と重要じゃないかと思うんです。

つまり、この場面、飽くまで“私”の「主観」なんですね。

  女が子どもを突き飛ばした
  女は薄笑いを浮かべていた

これ、全部、「“私”にはそう見えた」というだけで、
客観的な事実だとはどこにも書いていません。

もしかしたら“私”は、
「子どもが転がり落ちてきたので、パッと見上げたら階段の上に“女”がいた。
 この“女”が子どもを突き飛ばしたに違いない」
――と、状況からこの“女”を犯人だと思い込んでいるだけかもしれない。

ところで私、こんな話を聞いたことがあります。
人の顔を下から見上げると、顔の凹凸の関係で薄らと笑っているように見える場合があるそうです。

つまり、“私”の目撃証言だけでは、
この女が本当に子どもを“突き飛ばした”のか、本当に“薄笑い”を浮かべていたのかも良く分からない。
ただ“私”が「そう思っている」、というだけのことで、確実なことは何も分からないのです。


でもただ一つ、分かることがあります。

それは、“私”も“女”もその場から逃げたということです。

そう、これ! これが『ファイト!』が歌う「理不尽」な部分! (~□~ )クワッ!!


ただの事故かもしれない。 いや、故意に突き落としたのかもしれない。

でも間違いなく、この“女”は、子どもを助けずに逃げました。
“助けもせず、叫びもせず、ただ怖くて逃げた”のです。

それはこの場面を見ていた“私”と全く同じ行動
そう、この“女”と“私”はイコールなのです。

もし、子どもとぶつかったのが“私”だったなら?
“私”は子どもを助けに階段を駆け下りれるでしょうか?

  いいえ、きっとできなかったでしょう。
  自分が犯人ではない、ただの目撃者であったときでさえ、“私”は子どもを助け
  ることができなかったのですから、
  自分が加害者となってしまったとき、きっと“私”もこの“女”と同じように、
  その場から逃げてしまうはずです。

ただ 怖くて逃げました 私の敵は 私です

怖いっていうのは、そういうことなんです。 それが怖いんです。
ただ単に「物騒な場面に出くわしたから怖かった」っていう単純なことじゃない。
いつか自分もこの“女”と同じになるかもしれないから怖いんです。
いや、まさにそういう“私”になりつつあるから怖い。

だから“ 私の敵は 私 ”なんです。
 



  暗い水の流れに打たれながら 魚たちのぼってゆく
  光っているのは傷ついて はがれかけた鱗が揺れるから
  いっそ水の流れに身を任せ 流れ落ちてしまえば楽なのにね
  やせこけて そんなにやせこけて 魚たちのぼってゆく



  ああ 小魚たちの群れきらきらと 海の中の国境を越えてゆく
  諦めという名の鎖を 身をよじってほどいてゆく

  ファイト! 闘う君の歌を
  闘わない奴等が笑うだろう
  ファイト! 冷たい水の中を
  ふるえながらのぼってゆけ



『ファイト!』の中にある魚パートの歌詞を集めてみました。
2番の前半の部分と、ファイト!を締めくくる最後の部分ですね。

ここから先の考察は、もう中島さんではなくて私自身の言葉になってしまいますが、
『ファイト!』を聞くたびにいつも思うことがあるので言わせて下さい。

・ファイト! 戦うとはどういうことなのか
・何のために戦うのか


理不尽に立ち向かい、戦うことは素晴らしいです。美しいです。
でも、ものすごく辛く、苦しいことです。

鱗が剥がれ、美しく見えます。
でも、傷つき、痩せこけてしまう。

戦い続ければ、魚はいつか死ぬかもしれない。


だから、水の流れに身を任せ、時には流れ落ちて楽になるのも別に悪くないと私は思います。
だって、みんなそうやって、水の流れに逆らったり、時には流されたりしながら暮らしているのだもの。
全戦全勝、必ず勝たなきゃいけないわけじゃない。
たまに負けてもいいじゃない、人間だもの。(みつを感

だから、↓コレなのです。

  ああ 小魚たちの群れきらきらと 海の中の国境を越えてゆく
  諦めという名の鎖を 身をよじってほどいてゆく

  ファイト! 闘う君の歌を
  闘わない奴等が笑うだろう
  ファイト! 冷たい水の中を
  ふるえながらのぼってゆけ


勝ったり負けたりしながら辿り着いた海の中。
海にいるってことは、もうこの魚たちは何度も負け(挫折)を経験しているということ。

でも、その海の中でも振りほどかなくちゃいけないのが、

諦めという名の鎖

戦って負けても良いけど、
戦うことすら諦めちゃダメ

世の中、自分の力で勝てないこともあるけど、自分の力で勝てることもあるの。
そういう勝負まで諦めちゃったら絶対ダメ。

自分はダメな人間だからとか、
自分がやってもどうせ上手くいかないからとか、
自分自身を諦めるなよ!

  ……あれ? おかしいな。
  私の文章なのに、松岡修造の声で再生されるゾ?w お米食べろ!


で、“国境
これもキーワード。

中島さんが言っている“国境を越えていく”っていうのは、戦争は良くないとか差別はやめようとか、そういう「綺麗な話」だけではないと思うのですよ。

それは例えば、「自分」と「自分以外の誰か」を区別する境目。

「あの人と私は違うからー」とか、
「あの人は○○だから良いけど、私は××だからムリー」とか、

他人と自分を比べちゃうと、
「どうせ私は○○だから」っていう「諦める言い訳」が簡単に見つかっちゃうんです。

そういう、諦めの鎖に縛られないためにも、
他人がどうとか自分がどうとか、そういう国境は越えなきゃいけないのです。
米食べろ。

そして、
  ファイト! 闘う君の歌を
  闘わない奴等が笑うだろう
 
私のことを知らない誰かに笑われても負けるなよ

――と同時に、
闘わずに誰かを笑う自分になるな

 
そういう意味が、このサビの歌詞にはあると思う。 お米食べろ。

階段で子どもを“突きとばした女”のところでも書いたように、
“私”と“女”の間は紙一重なんですね。

だから、ふと気が付いたとき、
いつの間にか自分も“闘う誰かを笑う、闘わない奴ら”になっちゃってる可能性は少なくないのです。

で、この“闘う人”“闘わない人”の間にこそ、“国境”があるのですね。

本当はみんな誰しも何かと闘っている

ただそれに気づいてないだけ。
それに気付かないと、いつまでも自分の前に国境が立ちはだかるし、
闘ってる誰かを笑ったりしてしまう。
諦めの鎖に縛られてしまう。

だから『ファイト!』(闘え!)なのです。

勝て!とか、負けるな!とか言わないところが中島さんの優しさ。(と管理人は思う


勝てなくてもいい、負けてもいい。
でも、闘うことを諦めちゃいけない。

闘うことを忘れなければ、海の中でも魚は美しく光るはず。




っていう、ね (~▽~;)

どう? めっちゃクサいこと言ってるべ、私?w

そうなの。
だから以前、この記事書くの途中で止めちゃってたのw
歌で聞くとジーンと心に響くんだけど、いざそれを言葉で説明するとめっちゃ恥ずかしい話になっちゃうのですw

まぁ、そういうわけでね、
その恥ずかしさを紛らわすため、この人に最後を〆てもらいたいと思いますw


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ご拝読、ありがとうございましたー♪ (~▽~)ノシ




中島みゆき「Nobody is Right」も考えてみました →コチラ