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・“海”の意味を考える
さてさて、これですよ。
「ファイト!」の歌詞を考える上で一番の難題。
「ファイト!」の中で、少年や少女たち(=魚たち)は、
つめたい水の流れに逆らって泳ぐものとされています。そしてその姿が美しいと。
それが「ファイト!」=「闘い」だと。
しかし、歌詞の中には
「闘いの出場通知を抱きしめて あいつは海になりました」
「魚たちの群れきらきらと 海の中の国境を越えていく」
という部分があります。
流れをさかのぼっていたはずの魚たち、いつの間にか海に出ちゃってます。
*魚たちはもともと海の中にいた、という考え方
さかのぼるというと私たちはつい、「川をさかのぼる」だと思ってしまいます。
いわゆるサケの遡上です。
ですから、海に出る=(川の)流れに負けた、だと考えてしまうのですが、
この思い込みをいったん全て捨て、
魚はもともと海にいたんじゃないかと考えてみます。
海の中にも潮の流れがありますから、“水の流れ”がこの海の潮の流れを指しているのだと
すれば、「流れに逆らって泳ぐ魚たちが海にいる」という歌詞が理解できます。
――が、この解釈では歌のインパクトが薄れます。
「ファイト!」の力強さを直感的にとらえるなら、
やはり川をさかのぼっていくサケのイメージの方が歌の破壊力があるでしょう。
なので、やっぱりここは“海”=流れ落ちた場所、と考えるべきだと思われます。
「闘いの出場通知を抱きしめて あいつは海になりました」
というわけで、もしかして“あいつ”は流れに負けたんじゃないでしょうか?
曲のメロディーや歌い回しを聞いていると、
つい、この“あいつ”は何かを成し遂げたように聞こえてしまいますし、
また、大きな世界にチャレンジすることを『大海に漕ぎ出す』など言ったりします。
しかし、実際には歌詞の中で、勝ったとか成し遂げたとかはっきりと明言されているわけではません。
むしろ「ファイト!」の前半の歌詞には、
「頬を打たれ 少年たちの眼が年をとる」
「私 驚いてしまって―― 怖くて逃げました」
など、子供たちは理不尽な暴力に打ち砕かれ負けていきます。
そもそも「ファイト!」は“どうしようもない逆境”の歌です。そう簡単には勝てません。
ですから、この「あいつは海になりました」という歌詞は、
あいつは負けて流れ落ちていったのだと解釈する、その可能性も否定できない。
実際、『海の藻屑になる』なんて言葉もありますし、
「人が海になる」という表現は、日本人にとって「帰らぬ人になった」というマイナス
イメージを少なからず孕んでいます。西洋で言う「お星さまになった」ですね。
広い海に出ていったものはもう見つからない=行方知れずになった、
と、考えることもできるのです。
と、いうことで、
“海”は 負けて流れ落ちていった場所である と一先ず仮定したいと思います。
「魚たちの群れきらきらと 海の中の国境を越えていく
諦めという名の鎖を 身をよじってほどいてゆく 」
「ファイト!」のラストを締めくくる歌詞。
先ほど“海”=流れ落ちた場所だと仮定しましたが、
この“海”の中にも“魚たち”がいて、しかも“きらきらと”光っています。
おかしな話です。
魚がきらきら光るのは、流れに逆らい、はがれかけた鱗が揺れるからだったはず。
流れ落ちていった先の“海”にいる魚は、もう光らないのでは……?
しかも、海の中には「国境」やら「諦めの鎖」やらがあり、
魚たちはそれをふりほどいて泳がねばならないようで――
――はい、勘の良い人ならもう分かったはず。
そう、“海”=流れ落ちていった場所。
そこは、鱗がはげる(=傷つく)心配もない代わりに、もう光ることもできない、
当たり障りのないぬるま湯のような場所だと思われていましたが、――違います。
“海”の中にも、やはり越えねばならない国境があったり、振りほどかねばならない鎖があったりするのです。
その国境を乗り越えようとしたときや、鎖を振りほどこうと身をよじったときに、また鱗がはがれて魚は光るのです。
つまり、どういうことか?
「ガキのくせにと頬を打たれ 少年たちの眼が年をとる」
この「年をとる」とは、大人に逆らうことを諦め、少年自身が大人になるということ。
つまり流れに身を任せ流れ落ちていくということです。
――が、流れ落ちた先の海でもまだ乗り越えるべき国境や鎖があり、
大人になったからといって苦しみが全て消えるわけではないことが分かります。
そしてそれは同時に、
少年を殴った大人も何かに苦しめられているということを意味しています。
ブルーハーツの「トレイン トレイン」にもこんな歌詞がありますね
弱いものたちが夕暮れ さらに弱いものを叩く
少年が大人に反抗し、理不尽に殴られたように、
その大人も、さらに強い何者かに逆らい、理不尽に打ちのめされている。
その強い何者かも、きっともっと強い何者かに、虐げられている。
もう最終的には、神とか運命とかそういった人間の力ではどうしようもないような理不尽な話だって出てくるでしょう。
そうなると、「ファイト!」の歌詞の内容はまた少し変わってきます。
ここまで、「ファイト!」の歌詞には対立関係があると説明してきました。
“中卒の女の子” と “店の人”
“頬を打たれた少年” と“「ガキのくせに」と言う大人”
“階段で転げ落ちた子供” と “突き落とした女”
などです。
しかし前述のように大人の上にはさらに強い大人がいます。
こういう単純な1対1の関係だけではもはや全てを把握しきれません。
強い・弱いの立場関係はありますが、良い・悪いでは一概に判断しきれないのです。
例えば、少年→大人→世間という力関係だったとして、
少年が何か大人に反抗するとします。
もしここで大人が少年の反抗に賛同し、少年の味方になるとしたら、
大人はそれと同じ反抗を世間に対して行わなければならなくなります。
もしその闘いに負ければ、次に「頬を打たれる」のは大人自身か、
あるいは大人自身の手で改めて少年の頬を打たなければならないのです。
「中卒だから」の女の子。
「中卒」というだけで仕事を任せてもらえないのは理不尽です。
しかしもし、同じ職場に高卒の子や大卒の子がいる場合はどうでしょう?
私が店長ならやはり中卒の子を後回しにするでしょう。
もし高卒や大卒の子をすっ飛ばして、中卒の子を抜擢したとしたらそれの方が理不尽です。それを押し通せば、高校・大学を卒業したその子の努力が無視されます。
どんなにその中卒の子が良い子だと知っていたとしても、ものには順序というものがある。
この「順序」こそが、上で言う「世間」です。
中卒の子を抜擢するなら、なぜ自分が高卒でも大卒でもなく中卒を選んだのかを、店長は世間(もちろん高卒や大卒の子を含む)に対して納得させる闘いをしなければいけません。
そしてもし抜擢した中卒の子が何かミスをすれば、「ほら、やっぱり!」と指をさして嘲笑う世間との闘い(そしてその闘いから女の子を守ってやる闘い)が店長を待っているのです。
これこそが“海”でも魚たちが光る理由です。
そしてこのラストの部分の歌詞を良く見ると、
「魚たちの群れきらきらと」になっています。
魚たちの『群れ』です。
最初は「魚たち」だけだったのに、いつの間にか群れになっています。
どこかから合流してきた一団がいるのです。
つまり、“きらきらと”光っている(=逆境に苦悩している)のは、
最初に登場した“魚たち(=子供たち)”だけではない、もっとたくさんの人が苦しんでいるのだということであり、
そして「ファイト!」
その全ての人たちに「闘え!」と訴えかけているのがこの歌ではないか、と私は思うのです。