平沢進「確率の丘」 歌詞の意味を考える長文1

歌詞の意味を考える長文シリーズ(?)

今回取り上げたいと思いますのは、
一時期はテクノの寵児としてジャパンポップスに圧倒的風雲を巻き起こし、
現在では“ステルスメジャー”(無名の有名人)を自称する、
歌うツンデレおじさんこと『平沢進』さんの楽曲、

【 確率の丘 】


アルバム白虎野に収録されている、非常に軽やかで清々しい名曲です。



平沢さんの歌は、まぁ、とにかく歌詞が難解なことで有名でして、
どの曲を聴いたところでちゃんと意味が分かるものはほとんどありませんw

  なにせ平沢おじさんは「手拍子」と「フルヘッヘッヘ」という歌詞だけで
  一曲ぶん成立させてしまうような人であり、

  CGで出来たルーク・サトワン・コンディアオを“本物のヒラサワ”と称し、
  ボワファイを用いた強引な繁栄を批判するような人である。

  また、最近では全く新しい言語ヒラサワ語を発明し、アリアを熱唱している。

言ってる意味が分からないと思いますが、ほんとなんですw
そういう人なんですw (~▽~;)


なので、わたし的に平沢おじさんの曲は歌というよりも、どちらかと言えばBGMとして聞いている場合が多く、
あまり歌詞をまじまじと見る機会の方が少ないという変な状況なんですよw

つまり、私はもうはなから自分が平沢さんの詞を理解できるとは思ってない。

諦め = 悟り の境地なんです (ぉぃw


でも、たまにこうして改めて歌詞を見ていると、
なんとも奥深い世界観を感じるのも事実。

あまりにも難解なので、解釈は人それぞれだと思いますが、
今日は私の感じた「確率の丘」を一つご披露しようかと思います。



【確率の丘】

吹き飛ばされる枯葉の舞に 空一群の星は沸く
なお幾万の風さえを分け 着地の時を見逃すまいと

不意に聞く産声が星の名を変え
丘に咲く花々は知らぬ香を着る

変わらぬキミと忌まわしき夜 丘一面の砂は聞く
あの幾千の道なき今に 叶わず消えた星の歌

努々思いもせぬ黄金を咲き
丘に立つキミになぜ繰り返し見せる

口笛よ奇跡たれ 海さえ揺るがせと
迷いよとさらわれた未来(あす)を人に返し
舞う砂よ道理なる 火の楔と化して
丘に立つ新しきキミを庇い燃えよ

移る季節を隠して鳴らす 盲信の魔笛の匠
理(ことわり)の下吹くべく吹いた風の絵解きにキミを知る

不意に聞くキミの歌 星の名を変え
丘に咲く花々が懐かしく揺れる

瞬きよ崇高に 時の意味を変えて
絵空よと消えかけた街の門を開け
口笛よ驚異たれ 水を空に帰し
新しき雨と化しキミを讃え降れ



さて、歌詞を順に読み進めていく前に、
まずは私がこの曲をどんな内容だと思っているか書いておきます。

私的にこの曲は、
 ・愛すべき人との出会い
 ・そしてその人との別れ(死)
 ・別れの悲しみから立ち直る(死を受け入れる)(悟り)

こんなストーリーではないかと考えています。


では、歌詞を読んでいきましょう。



1. 吹き飛ばされる枯葉の舞に 空一群の星は沸く
   なお幾万の風さえを分け 着地の時を見逃すまいと

非常に情景豊かなシーンです。

ザァッと大きな風が吹き、枯葉が地表近くを走るように動きます。
そして空では星が「沸く」。いつもより強く輝いて見える、美しく瞬いて見える、と言うようなそんな感じでしょうか。

とにかく、なんだかいつもとは違う。
(もしかしたら日頃気付いていなかっただけで、たまたま今夜だけそんな気分になっただけかもしれないけれど)

これから何かが起こりそうな、そんな予感があるのでしょうか。
その何かの「瞬間」を“見逃すまい”と星や風や枯葉たちがざわついているような、
そんな夜の情景です。

  もちろん、本当にざわついているのは星や風ではなく、
  そう感じている主人公の“心”です。



2. 不意に聞く産声が星の名を変え
   丘に咲く花々は知らぬ香を着る

産声
何かが生まれました。

愛する我が子の誕生かもしれない。
あるいは、愛すべき伴侶との出会いを“産声”と表現したのかもしれません。

いずれにせよ、主人公にとって何かとても大切なものがこの瞬間から始まり(生まれ)ます。

  この「愛すべき何か」「大切な何か」が具体的に何であるかを限定する必要はありませんが、

  ここからは便宜的に、主人公を『男』
  そしてその愛すべき相手を『女』(妻や恋人)と表現することにします。

  なぜなら私はこの歌の中に、イザナギイザナミ神話のような展開を感じたからです。
  (詳しくは後述していきます)


産声」が「星の名を変え」、「花々は知らぬ香を着る

産声が誕生した瞬間から、
星も花も昨日までとは全く違うものに変わりました。

つまり、男は女に出会ったことで、
世界がそれまでとは全く違って見えた、ということではないでしょうか。

男にとって世界が“幸福な場所”に変わったということです。



3. 変わらぬキミと忌まわしき夜 丘一面の砂は聞く
   あの幾千の道なき今に 叶わず消えた星の歌

ここから曲は2番の歌詞に入ります。

忌まわしき夜
突如投げ込まれる不穏な言葉です。

1番の歌詞は豊かな情景から、世界に幸福が満ちていく様子を歌っていましたから、その直後に突然現れる「忌まわしき夜」という言葉はかなりショッキングです。

「忌まわしき夜」  ……何のことでしょう?

月並みではありますが、これを一旦 “” であると仮定しましょう。

  もちろん他にも色々と可能性はありますが、
  1番の歌詞が「産声」であったなら、2番の歌詞が“死”であることに不思議はありません。
  1番と2番の歌詞はそれぞれ対比関係なのです。
  
ある晩、女は“死”に襲われた。

もう女は男のために微笑むこともなく、男と共に年老いることもない。
死によって時間の止まってしまった女のことを 「変わらぬキミ」 と表現しているのではないでしょうか。


そして、この2番の歌詞でも情景を表現する部分がありますね。
丘一面の砂」や「叶わず消えた星の歌」などです。

「星」の方は何となく分かりますね。
1番の産声のときには「沸き」立って煌めいていた星々ですが、
この部分ではもう歌を歌う(=1番の「沸く」に対応する煌めきの表現です)こともなく消えてしまっています。

また、「丘一面の砂」です。
1番の歌詞を思い出して下さい。1番では「丘に咲く花々」と歌っていました。
そう、いつの間にか花がなくなって丘一面は砂の地肌が見えるだけになっているのです。

なんと寂しい情景になってしまったのでしょうか。

  つまり、ここでも1番と2番の歌詞は対比関係です。

愛する人との別れによって、
男の世界からは再び幸福が失われてしまいました。

あの幾千の道なき今に」の部分は、
愛する人と共に過ごすはずだった幸福な未来のことでしょう。
あんな幸福があったかもしれない、こんな幸福があったかもしれない。
「幾千の道」=いろいろな未来があったはずなのに、
それらはすべて「叶わず消えた星の歌」(叶うこともなく消えてしまった)。



4. 努々思いもせぬ黄金を咲き
   丘に立つキミになぜ繰り返し見せる

努めて考えないようにしているのに、
黄金咲き乱れる丘に立つキミを、なぜこうも思い出してしまうのか。

――と、こんな風に訳すのはいかがでしょうか。

ちなみに、平沢おじさんの曲に出てくる“黄金”という歌詞フレーズは、
“偉大な”とか“完璧な”とか、あるいは“完全な悟り(真理)”などといった意味である場合が多いです。
  錬金術におけるの黄金=完全な金属とか賢者の石などといったイメージを
  踏襲しているのだと思います。


つまり、女の死によって、男の世界は「丘一面の砂」になっていますが、
それなのに男はいまだに女と共に迎えるはずだった黄金の未来の幻影を見てしまう。
忘れたくても忘れられない、黄金の幻影が男を苦しめているのです。



5.  口笛よ奇跡たれ 海さえ揺るがせと
    迷いよとさらわれた未来(あす)を人に返し
    舞う砂よ道理なる 火の楔と化して
    丘に立つ新しきキミを庇い燃えよ

ここですね。
ここをイザナギイザナミ神話っぽいなと私は感じました。

迷いよとさらわれた未来(あす)を人に返し
「人」とは男自身のことでしょう。
女が死によってさらわれた(奪われた)のは何かの迷い(間違い)だ。
私に未来(愛する人との幸福)を返せ。

――と、男は女の死を受け入れず、女を死から奪い返したいと思っているのです。


口笛よ奇跡たれ 海さえ揺るがせと
口笛によって男は奇跡を起こそうとします。
  口笛は古い時代には“まじない”の一つの儀式でした。

そして「海」。
ここで初めて登場する歌詞なので、いったいどこに海があるのかは分かりませんが、私のイメージでは彼女がいる丘(幸福な死の世界)と男のいる地上(現実の生の世界)、これを分かつように男と丘の間に海が広がっているような感じです。

  この歌における「丘」とは、海の上にうかぶ島のようなものかもしれません。
  それは例えば仏教説話でいう“蓬莱山”のような、海の向こうの“理想郷”です。

男は女を取り戻すため、口笛で海を割ろうとします。 まるでモーゼのように。

しかし恐らく男はこの丘に上がることができなかったでしょう。
そこはそもそも男の住む現実の世界とは違うのですから。

舞う砂よ道理なる 火の楔と化して
丘に立つ新しきキミを庇い燃えよ

それでもなお、男は丘にすがりつこうと、砂を掴み、火の楔を打ち込みしがみ付こうとします。
「火の楔」、とても荒々しい表現です。
  楔とは、ここでは地面に打ち込む杭のようなイメージをすれば良いでしょう。
火とはまさに男の激情であり、執念です。
女を奪った死に対する怒りなのかもしれません。

それでもなお、それでもなお、
男は女を取り戻すことができません。 なぜなら、“それが死だから”です。

そこで男は自分の作った火に、「キミを庇い燃えよ」と願います。
男は彼女を取り戻せないのだとしても、“死”にもそれ以上彼女を触らせたくなかった。
そして、せめて遠くからでも彼女の居場所が分かるように、その火は男にとって道しるべでもあったのかもしれません。


先ほど私はこれをイザナギイザナミ神話に例えましたが、
このような“男が死んだ女を冥界に迎えに行く話”は世界中にあります。

例えば、ギリシャ神話に登場する「オルフェウスとエウリュデュケー」。
  平沢さんは同じくギリシャ神話のナルキッソスを歌にしたこともありますし、
  どちらかと言えばこのオルフェウスの方がモデルかもしれませんね。

  しかも、オルフェウスは“音楽の名手”であり、“吟遊詩人”です。

で、こういった“黄泉がえり神話”は、だいたい失敗して終わります。
死者は何をやっても生き返らないものなのです。


ですから、この「確率の丘」の歌でも、
男は奇跡を起こそうとし、海を割り、丘にすがりつき、女を取り戻そうとしたが、
できなかった。
男は心折れ、肩を落として帰っていった。

――と、そんな風に読み取ることができるでしょう。