中島みゆき「Nobody is right」 歌詞の意味を考える長文3

これは前ページからのつづきです
まだの人は「その1」から読んでね(~▽~*)


う~ん、前回の終わり方はちょっと皮肉っぽすぎましたねw (~▽~*)


でも、まぁ概ねそういうことです。

人は、自分と違う意見の相手と出会ったとき、
相手を倒せば、自分の“正しさ”が証明できると思ってしまいます。

逆に、相手を倒せなければ、自分の正しさが否定されると思ってしまいます。

誰でもそう思います。
偉そうにこんなこと言ってる私でさえ、しょっちゅうそう思うのだから間違いありませんw



でも、違うのです。

パパンと私のケンカを見ても分かるように、
相手を倒しても、自分の“正しさ”はレベルアップしないのです。


じゃあ、意見の違う者同士の間で起きるこの“争い”は何なのか?

これはもはや、
「やっぱり自分は正しい (*´▽`*) 」
「ほうら、思ったとおり私は正しい人間だ (*´▽`*) 」
という自己満足を得たいがためだけの、ものすごくエゴイスティックな感情に突き動かされている“争い”なのです。


 
“悪い人”とは何か?

それはまさにそういう自分のエゴさに気付かないで、争い続ける人ではないでしょうか?


もっと具体的に分かりやすく言えば、

「相手を否定すれば、自分の正しさが証明できると思っている人」であり、

「自分の正しさの証明のために、他人を否定する人」であり、

「自分の優越感のために他人を攻撃する人」のことです。


「自己満足のために他人を利用する人」 と言っても良いでしょう。



「自己満足のために他人を利用する人」……、めちゃめちゃ悪人じゃないっスかw


もちろん、常日頃から「誰か利用できる人間はいねぇか、ゲッヘッヘ」なんて言ってる人は滅多にいませんw

しかし、意見と意見がぶつかって、人と人が争うとき、
誰の心の中にもこういうものすごくゲスい悪意が芽生えるものなんだよ、と。
この「Nobody is Right」はそのことをこそ警告しているのではないでしょうか?


他人を攻撃するとき、
直接的に相手の肉体を傷つける暴力や戦争はもちろんのこと、
相手の人格や思想を打ちのめそうとする、精神的な暴力なども含めて、

人が人を攻撃するというのは本来、“悪”です。

しかし、自分の中の“悪”を肯定するために、人は必ずこう言います。

「私は正しいのだから」

「相手が間違っているのだから」

「私は正義のために戦っているのだ。悪を滅ぼすために戦っているのだ」


7. Nobody is Right. Nobody is Right. Nobody is Right. 正しさは
   Nobody is Right. Nobody is Right. Nobody is Right. 道具じゃない


他人を傷つけるという行為、“悪”を正当化するために“正しさ”を振りかざす。

正当化された自分を見て、満足感に浸る。


そんなことのために“正しさ”はあるんじゃない、と。

“正しさ”は人を傷つける武器じゃない、と。

“正しさ”は貴方を良い気分にさせる、甘いお菓子じゃない、と。


正しさは、争いの道具じゃない”、と


そういうことではないでしょうか?



また別の言い方をすれば、

人は“正しさ”で自分のエゴや弱いところや汚いところを覆い隠してしまう。
覆い隠して、立派な人間になったつもりになってしまう。

その思い上がりが、傲慢さが、争いを生み出すのでしょう。

だから、“正しさ”を、自分のエゴの「隠れ蓑」にしてはいけないのだ、と。
正義の陰に隠れた場所にこそ、本当の自分自身の“悪”が芽生えているかもしれない、と。

「Nobody is Right」は、そういう誰の心の中にもある闇、
人の心の弱さを歌った曲”なのです。



……と、言葉で言うのは簡単ですが

人間だれしもカンペキじゃないんだから、分かり合わなきゃいけない。
お互いを理解し合わなきゃいけない。

言葉にすると簡単なことですが、でもこれが最も難しいこと。


なぜ人は争うのか?

なぜ人は、「自分は正しい」と思いこむのか?



なぜなら、その人にとっての“正しさ”は、
その人自身の知識や経験など、人生の全てを詰め込んだものだからです。


人は、生まれたばかりのころは何が正しくて何が悪いのか知りません。
しかし、成長して、色々なことを経験していく中で様々なことを学びます。
この「学び」こそ、“正しさ”を生み出す土台です。

  私は前回の記事で、
  何が正しくて何が間違っているのか判断するのは、その人自身の知識と知恵だと言いました。

“正しさ”は、その人が今まで蓄えてきた全ての知識、全ての経験、全ての知恵という巨大な土台(つまりそれはまさに自分自身!)の上に立っているのです。


だから、人はその“正しさ”を否定されると猛烈な反感を覚えます。
その“正しさ”が不完全なものだと認めることを拒みます。
なぜならそれは自分自身が培ってきたすべての経験を否定されている、つまりは自分という人格を全否定されているような気持ちになるからです。


だから、人は自分自身の“正しさ”、つまり自分自身そのものを正当化するために争いを起こすのでしょう。



イメージ 1

その人自身の“正しさ”は、確かにその人にとっては最も巨大で最も強固な柱です。
これ以上、その人の中で強力な意味を持つ『価値観』はありません。

でも、飽くまでそれは1人の人間のちっぽけな知識とちっぽけな経験の中でしか生まれていない、
脆弱でか細い、真っ直ぐですらない、“カンペキではない正しさ”なのです。


カンペキじゃなくても良いじゃない。人間だもの。

だから、自分の“正しさ”を否定する相手がいたって当然なの。
だってカンペキじゃないのだもの。


否定されるってことは、そこが自分の“正しさ”の弱い部分ってことでしょ?
「なにをー!? 俺は間違ってないぞー!」なんて傲慢なことを言う前に、
それ以上同じ場所を攻められないように、自分の“正しさ”を補強すれば良いんじゃないのかな?
まだまだカンペキには程遠いだろうが、さっきより少しはマシになるだろう。(古美門感)

  ちなみに、私が最近キライな言葉は、
  第1位が「対案を出せ」 で、
  第2位が「ブレる」 ですw

  何か指摘されると、もう光の速さで伝家の宝刀のごとく「対案を出せー!」と叫ぶ人がおりま
  すが、
問題点を指摘されとるんだから、まずは『修正案』を出してきなさい、とw

  あと、最近はなんか人が意見や方針を変えると、すぐ「ブレたw ブレたw」と揚げ足取りをする
  人がおりますが、
  意見が変わるのって、そんなにいけないことですか、と。
  生まれて死ぬまでずっと同じ考えのまま? そんなのただの頑固親父じゃないか。
  確かに理由もなく意見にまとまりがないのは良くないけども、
  何かのきっかけで考えや価値観が変わるのって、当たり前じゃないかな?
  新しい知識を得れば、考えも変わるだろうさ。 それが成長だよ。
  「ブレるw」とか言って、それを嘲る人は大キライです。




まぁ、なんか今回の記事は随分と説教臭い内容になってしまいましたが、
これが私の「Nobody is Right」から感じるものでございます。

「Nobody is Right」はわりとストレートな内容だけに、単純に意味を拾うだけなら分かりやすいものなのですが、
なぜ人は争ってしまうのか、なぜ人は自分を正しいと思い込んでしまうのか、――という部分まで話をしたくて、ついつらつらと説法のような記事になってしまいました。


「なぜ人は――」という単語の説教臭さったらハンパねぇな! (~▽~*)





しかし、敢えてここでまさかの急展開!


ちょっと待ってよ、中島さん!


「ファイト!」では「戦え!」って言ってくれたじゃないですか!?


「Nobody is Right」では「争うな」ですか!?


どっちなんですか、中島さん!?!?



→次回につづく!